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佐々成政


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天文5年1月15日?(1536年2月6日) - 天正16年閏5月14日(1588年7月7日))は、戦国時代・安土桃山時代の武将。尾張国出身。父は佐々成宗(盛政とも)。通称内蔵助(くらのすけ)。陸奥守、侍従。家紋は棕櫚。馬印は金の三階傘。

府中三人衆時代 成政は鉄砲の扱いに長けていたと言われ、長篠の合戦では鉄砲隊を率いて活躍した。のちに北陸方面の軍団長柴田勝家の与力となり、前田利家・不破光治とともに越前府中3万3000石を与えられ小丸城を築いて居城とし、府中三人衆と称せられた。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、かなり独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されることが多かった。


越中時代
1580年頃より対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わるが、1581年2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の神保長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が別れた。

明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につくが、賤ヶ岳の合戦には上杉軍への備えのため越中を動けず、合戦に参加出来なかった。成政は勝家を滅ぼした秀吉に対して徹底抗戦の構えを見せていたが、越中一国を安堵され矛を収めた。しかし翌天正12年小牧・長久手の戦いが始まると、成政は徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こった。また越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の北アルプス・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」であった。しかし結局説得は功を奏せず、壮挙は空しく失敗した。

翌1585年、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。


肥後時代
1587年の九州平定で功をあげたことを契機に、肥後国一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われるが、これが言葉通りの意味に取れるかは不明。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするが反対する国人が一揆(肥後国人一揆)を結び反抗した。このため、失政の責めを受け摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(諸説あり)。戒名は成政寺庭月道閑大居士。

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